2014年12月2日火曜日

自分のことではないけれど

 次のようなツイートを見つけた。



 ツイート中に述べられている「大谷大学の学生がその謎に挑んだ論文」とは、大谷大学同窓会のサイト『無盡燈』に掲載されている「尋源館「塔」の謎」というページにPDFで公開されている岡田一也氏の卒業論文である。
 私は彼の卒論の副査を担当した。その縁あって、彼の卒論をネット上に公開する際にもインタビュアの役目を仰せつかった。そのインタビューの様子は同窓会誌『無盡燈』133号に掲載され、インタビュー部分のみを切り出したPDFも公開されている。

 この論文がこうして読まれていることは、関係者の1人として非常にうれしい。

 いま現在卒論に取り組んでいる諸君にとっても励みになるんじゃないのかな。

2014年11月16日日曜日

ケータイ破損と交換

 ケータイ(Sony Xperia UL)を落としてしまった。
 私は、ケータイをシェルにもケースにも入れていない。メーカーは1g、1mmを必死になって削っているのに、何が悲しくてその努力を無にするようなことをせにゃならんのか、と思っているからである(表向きは)。それが災いしてか、当たり所が悪かったのか、いとも簡単に液晶ディスプレイが割れてしまった。
左下の部分からの衝撃で割れたことがよく分かる。

 ささほど派手に割れているわけではないが、タッチ位置の検出がおかしくなっているようで、指先による操作では、ロック画面の解除すらままならない。つまり、実質上、全く使えない。

2014年8月5日火曜日

子どものための文化

ギャレス・エドワーズ監督『ゴジラ』を見た。
 いや、もう、なかなか楽しかった。

 公開されて、もう1週間以上経っているので、あちこちにレビューが上がっている。だから、この投稿では、チョット違う面から考えてみたいと思う。

2014年7月13日日曜日

分かっちゃいるけど……

 こういう、普段から開口したままのメモリーカードスロットが、すぐに使えなくなってしまう。

inputの対価

 自分の外部からさまざまなことを取り入れるのには、友人知人との付き合い、読書、講演会、展覧会、等々、さまざまなチャンネルがありうる。しかし、それらを活用するには、金銭のみならず、時間や労力など、少なからぬコスト(対価)がかかる。

2014年7月7日月曜日

カメラ3種の諸元メモ

 いま使っているデジカメは、3種類ある。

 ケータイXperia ULに付いているもの、DSC-TX1、DSC-RX100M3、である。気が付けばSonyばかりだが、何も意図するところはない。

 忘れない内に、諸元を書き留めておこう。

  Xperia UL DSC-TX1 DSC-RX100M3
発売日 2013/5/25 2009/9/4 2014/5/30
サイズ 約71×135×10.5 mm 93.8×16.5×58.2 mm 101.6×58.1×41.0 mm
重量 約145g 約142g 約290g
モニター 約5.0インチ 約3.0インチ 約3.0インチ
センサー ブランド Exmor RS Exmor R Exmor R
サイズ 1/3.06 1/2.4 1
解像度 3,920×2,940
最大4,128×3,096
3,648×2,736 5,472×3,648
ISO
―
160-3200 125-12800
エンジン
―
BIONZ BIONZ X
レンズ ブランド
―
ZEISS Vario-Sonnar ZEISS Vario-Sonnar T*
焦点距離 28mm 35-140mm 24-70mm
F値 F2.2 F3.5-4.6 F1.8-2.8


北海道で見かけた気になるもの

 大谷大学同窓会「夏季八十講」の一環として、北海道の砂川支部と網走支部とを訪れた。

 そこで見かけた気になるものどもを……

2014年7月6日日曜日

願いごと

七夕が近づいてくると、駅前の電柱にも、笹飾りが飾られる。スーパーの店頭でも短冊と筆記具が用意される。

見てると、子供連れが子どもに書かせているのが殆どで、大人が書くことは殆ど無いようだ。

もったいない。

学生さんに訊ねてみたことがある。案の定、学生さんたちも、短冊に願いごとを書かないという。続けて、なぜ書かないのかを訊ねてみる。幼稚園や小学校の時には、書くように促されると喜んで願いごとを書いていたのではないか。

かつて、「流れ星を見たら、消えるまでに願い事を3回心の中で唱えたら、願い事が叶う」というのも、同様であろう。いつの間にか、多くの人が流れ星を見ても、願い事を心の中で唱えなくなる。


「そんなもの、本当に願いが叶うわけでなし……」と異口同音に言う。

そんなことはない。
機会ある毎に短冊に願い事を書き、流れ星を見つけては心の中で願い事を3回唱えられたら、きっと願い事は叶うのだ。

どうしてそんなことが言えるのだろうか。

2014年6月30日月曜日

大学生の「生徒化」は誰のせいか。

 舞田敏彦氏の数値データによる指摘は、実際に教育に携わっている者にとっては、日々感じていることを数値で裏付けられたように感じられ、いつもウンウンと肯きながら読んでいる。


 そんな中で、特に気になった記事がコレである。



 データえっせい: 大学生のマジメ化・ウチ化 (2014年6月24日)




 「最近の大学生は、マジメになってきたけど、とんがった学生が少なくなってきた」といったことは、ことある毎に同業者から聞かれるし、私も何度か口にしたことがある。

2014年6月29日日曜日

人間、やめますか……

 自宅に帰ったら、無印の通称「人をダメにするソファ」が2つ来ていた。


 2つ?!

買ってしまった、Sony RX100 Ⅲ

 Facebookの「ともだち」であるNさんがSony RX100を購入したという投稿を読み、気が付いたらRX100 Ⅲをネットでポチっていた。


2014年6月23日月曜日

私が夏でも上着を着ているワケ

 私は、夏でもネクタイを締めて上着を着ていることが多い。

 これには、とてもとても浅薄なワケがある。


2014年6月19日木曜日

howとwhy

 日本気象協会のサイトに、「北海道で長雨 最長記録を更新中の理由」(財目かおり)という記事が載っていた。
 ここでは、北海道で随分長い間雨が続く「理由」として、「北緯40度近辺での上空の風の流れが弱い」、「南から湿った空気が流れ込んできている」といったことを挙げて説明している。

 ナルホド。分かりやすい。

 その一方で、こういったことって「理由」なんだろうか、という疑問が浮かんできた。

2014年6月15日日曜日

「知識は世界への窓口である。」

 梅雨である。

 この時期はジメジメとしていて、お世辞にも心地良いとは言えない。
 その上、雨に降られると、傘のさしかたが下手な私はかなり濡れてしまう。
 ヒドい土砂降りの中でも、小さな折り畳み傘だけで、つま先の一部しか濡らさずに歩いて行く人がいる。どうしたらあんな風に歩けるのだろうか。私なんぞは、足もとはもちろんのこと、肩やカバンまでビショビショになってしまう。
 濡れて嬉しいわけはない。

 私にとっては、梅雨の時期は、文字通り「鬱陶しい」以外の何ものでもない。

 だが、この時期を心待ちにしている人もいるのだという。

2014年6月13日金曜日

埃を寄せ付けない誇り

 話題になっているという、ファミリーマート店員の加藤さんの様子を撮影した動画を見た。
 「キレッキレ」という形容句が適切なのかどうかはともかく、アメ横のオッチャンみたいな威勢の良さとオーバーアクションで、ついつい見入ってしまうのは間違いがない。



2014年6月12日木曜日

平和を求めることは、往々にしてテロリズムを生む

 授業で、「平和を求めることは、往々にしてテロリズムを生む」と言ったら、キョトンとした顔が目についた。

 授業で言ったことを反対側から説明し直せば分かりやすくなるかな。


2014年6月10日火曜日

会えるアイドルと見仏

 龍谷ミュージアム館長の入澤崇先生のツイートに次のようなものがあった。


※入澤先生は、2012年度の大谷大学仏教学会公開講演会に来て頂いた。→仏教学科blog

 ひょっとすると、「AKB48に会いたい」ってのと、見仏を期待する人の心情とは、根本的なところではさほど違いが無いのかも知れない。

2014年6月8日日曜日

喜捨

 ブログに限らず、文章を書いていると、なかなかまとまらずに往生することがある。
 このブログにしても、「下書き」は毎日1本以上増えているにも拘わらず、実際に公開にまでこぎ着けることができる記事はほとんど無い。

 原因は明らかだ。

2014年6月7日土曜日

信頼

 私が大学生だったのは、もう20年以上も前のことになる。だから、現在の学生さん達と私の学生時代とが色々な部分で異なっているのは、むしろ当然のことだと言っても良い。私が学生だった頃は、まだバブルの余韻が濃厚で、バブルがはじけたという実感は希薄だった。そういう意味では、私の学生時代が特異だったと言うこともできよう。いわゆる「最近の若い者は……」論にならないよう気を付けつつ、考えてみたい。
 それに、どういうところに「違い」を感じたのかを確認しておくことは、自分自身を確認するためにも、それなりの意味があろう。


読書と負荷

 退勤時、列車の中で読む本は、小説を選ぶことが多い。疲れているので、「軽い」読み物をつい選んでしまうのだ。
 だが、ちょっと考えると、これは不思議な表現だ。
 ノンフィクション本と比べて、「小説」は、脳みその負荷からいえば決して「軽い」読み物ではないはずだ。
 ノンフィクションであれば、読み取った内容を現実世界に対応佐瀬だけで済む。
 それに対して、小説などといったフィクション本は、そこに書かれている事柄を現実に対応させるだけでは「読んだ」ことにならない。
 小説などは、基本的にそこに書かれていることは「作り話」であるという前提で読む。しかしながら、何から何まですべてがこの現実世界に対応しないというわけではない。実在の土地や人物が出てくることもあれば、歴史的な事柄が重要な役割を果たしていることもある。そういった場合は、自分の記憶にある知識と結びつけなくてはならない。その上で、現実には対応するものがない事柄について想像力を働かせなくてはならない。更に感情移入という「重い」作業を強いられる。こう考えると、フィクションの方が、幅においても、深さにおいても、より処理量が多い筈だ。
 それにも拘わらず、ノンフィクション系よりもフィクションの方が「軽い」気持ちで読むことができる。

 どうしてこんなことになるのだろうか。

2014年5月25日日曜日

真宗教学学会長崎大会に参加して

 昨日(5月24日(土))、真宗教学学会長崎大会が開催され、私も参加してきました。

 長崎教務所(東本願寺長崎教会本堂)で行われた開会式では、来年で長崎に原爆が投下されてから70年になることが述べられ、「親鸞と非核非戦 ―仏智を疑う罪―」というテーマが確認されました。
 東本願寺長崎教会の境内には、「非核非戦」と刻まれた碑があり、その下には、原爆で亡くなった身元不明の遺骨が納められています。その数は一万体とも二万体とも言われるそうです。配布されたパンフレットには、次のような言葉が印刷されていました。

ただひとつなる罪

戦没者たちは決して
敵の砲弾や原爆で
死んだのではありません
戦争を「聖戦」と呼び
美化していこうとする
人間の無明――
そのただひとつなる罪に
よってではないでしょうか
「反核反戦」と「非核非戦」
他者にはたらきかける「反」とともに
自分のうちに問いかける
「非」という語をもって
はじめて自分というものが
あきらかになってくるのです

「核」も「戦」も
他人事ではありません
自分自身の心の中にこそ
「核」や「戦」は存在するのです


「非」とは
私の考え方、生き方、
社会の在り方を問い直す
仏の悲のはたらきなり

「核」とは
人間の「チエ」なり
人間の無明なり

「戦」とは
人間の心の奥深くにある
差別の心なり
この碑には、「非核非戦」の文字とともに「共に生きよ」と彫られています。
 「核」や「戦」を、自らの無明が引き起こす〈罪〉と捉えようとする姿勢に心打たれました。

 この碑に手を合わせた後、坂を下りてホテルセントヒル長崎に会場を移し、研究発表、記念講演と拝聴しました。

研究発表
  • 武宮真紹
     法蔵菩薩を共に生きる
  • 松林 大
     選択本願悪世に弘む 〜疑情と信心〜
  • 澤田 毅
     3.11(地震と原発)を災害と呼ぶ『我』
  • 内藤円亮
     非はすなわち悲なり ―「悲の教学」について―
記念公演
  • 中島岳志
     脱原発の理由
  • 加来雄之
     愚禿の「非核非戦」 ―偽に対し、仮に対す―
質疑応答
   コーディネーター:木越 康
 全体を通して聞き、私も色々と考えさせられました。

 まず、「非核」や「非戦」といったことが、過去の出来事による感情的なアレルギー反応になってしまっていないかといった問いが、被爆地長崎において提出されたことは衝撃的でした。
 「○○が原因となって、過去にこんな悲惨なことが起きた。だから、○○には〈とにかく〉反対だ、無くすべきだ」という態度それ自体は、私にはとても自然なことのように思えます。
 しかし、この態度が多くの人びとに受け容れられるには、その「悲惨なこと」が、論を俟つまでもなく○○と結びつけて受け容れられていなくてはなりません。○○の存在は当然「悲惨なこと」に帰結するということが多くの人に受け容れられていて、ようやく「○○反対!」という声が受け容れられ得るのです。さもなければ、「○○反対!」という声は「極論に過ぎない」と片付けられてしまい、その声を上げる人たちには奇異の目が向けられることになってしまいます。これでは、運動は、拡がりを見せるどころか、却って縮小していかざるを得ません。
 翻って考えてみるに、そのような声や声を上げる人に対して顔を背ける人は、何故そのような態度をとってしまうのでしょうか。それは、恐らくは本能的に、「○○反対!」という声の中に、その声を発する人の「我(が)」を嗅ぎ取ってしまうからではないでしょうか。私たちは、自分個人の限られた体験をムリヤリ普遍化しようとする人を、「我の強い人」として嫌います。
 今や、「核」も「戦争」も、アプリオリに「悪」と捉える人ばかりがいるわけではありません。原爆投下から70年に垂んとする時間が経過してしまった今、新聞やテレビにすら、これを積極的に考えるべきだといった意見を毎日のように見ることができます。「反対」を唱える人は、こういった人が功利心に冒されていると言います。勿論そういう側面はあるでしょう。だからと言って、「反対」論者の方には功利心が無いとは言い切れないでしょう。「核」や「戦」に反対することでどのような功利が生ずるのでしょうか。何よりもおそろしいのは、自ら(とその行為)を紛れもない「正義」と捉え、それに敵対する存在を「悪」と位置付けてしまうことです。そういった態度は、むしろ、自ら自身を「核(=エゴ、無明)」「戦(=差別心)」のなかに陥れる装置として働きがちです。ここには「共に生きよ」という態度を見出すことは難しく、むしろ「私と共に生きよ」という自己中心的な姿勢に転訛してしまっています。このような態度をとる人に対して、生理的に嫌悪感を抱いてしまうのは、むしろ当然と言えるでしょう。それが個人ではなく集団ならばなおのことです。

 「核」や「戦」から全く離れて生活することはできません。むしろ、私たちの日常生活は「核」や「戦」そのものです。
 これを防ぐには、自らのありさまを不断に問い直していくような姿勢が必要です。
 ところが、これがかなり困難であることは論を俟ちません。せいぜいが、手法・方法の妥当性を問い直すことができるぐらいです。

 ここに、宗教や浄土教の可能性を感じることができました。
 まだ、自分自身の中でも十分に咀嚼できてはいないのですが……。

 「核」や「戦」は如来から遠ざかろうとする姿であると言うこともできるでしょう。ありのままの在り方(如実法)に対して目を背けるありさまは、「凡夫」と呼ばれます。自らが凡夫(煩悩を断ちきろうとすらしていない者)であるということに対して、誠にそうであったと頭を垂れる姿勢はどこから生まれ得るのでしょうか。私ばかりではなく、いま敵対しているものも、ともに浄土(執着から離れた世界)に生まれることができるのだという喜びと確信がなくては、堪えられないでしょう。

―――
 他にも実に多くの刺激を受けました。
 それはまた別の機会に……(眠くなってきました。)

2014年5月22日木曜日

また始めてしまいましたよ。

 いくつかのブログをボツにした後、またまたブログを立ち上げてみました。どんな内容になるのか、まだ分かりません。そもそも、何を考えてまたブログを開設したのか、自分でも分かりません。

 だいたい、記事を書く余裕(特に「心の余裕」)がどれだけあるかすら分かんないんだけど……。

 釆睪の状況は、Twitterを確認してもらう方が確実かな。