2014年7月6日日曜日

願いごと

七夕が近づいてくると、駅前の電柱にも、笹飾りが飾られる。スーパーの店頭でも短冊と筆記具が用意される。

見てると、子供連れが子どもに書かせているのが殆どで、大人が書くことは殆ど無いようだ。

もったいない。

学生さんに訊ねてみたことがある。案の定、学生さんたちも、短冊に願いごとを書かないという。続けて、なぜ書かないのかを訊ねてみる。幼稚園や小学校の時には、書くように促されると喜んで願いごとを書いていたのではないか。

かつて、「流れ星を見たら、消えるまでに願い事を3回心の中で唱えたら、願い事が叶う」というのも、同様であろう。いつの間にか、多くの人が流れ星を見ても、願い事を心の中で唱えなくなる。


「そんなもの、本当に願いが叶うわけでなし……」と異口同音に言う。

そんなことはない。
機会ある毎に短冊に願い事を書き、流れ星を見つけては心の中で願い事を3回唱えられたら、きっと願い事は叶うのだ。

どうしてそんなことが言えるのだろうか。



流れ星の例で考えるのが分かりやすかろう。

流れ星が夜空で輝く時間はさほど長くない。3秒も光っていたら長い方であろうか。
そういう流れ星を空に見出した時には、既に発光時間のかなりの部分が経過している。残された時間は1秒かそこらであろう。

その短い間に、次のようなステップを経る必要がある。

1. 流れ星に気づく。
2. 「願いごとをしなきゃ」と思いつく。
3. 何を願うか考える。
4. 願いごとを3回心の中で唱える。

多くの人がつまづくのは、「3. 何を願うか考える。」という段階であろう。
少なからぬ人は、自分が何を願っているか分かっていないからだ。

これを、『法華経』の火宅の譬えでは、火事の家にいる子どもの姿として描いている。

子ども達(衆生)は、火事になった家の中にいる。火事に気付いていないわけではない。ただ、火事の恐ろしさを知らないのである。
苦痛 己を切(せ)むれども、心 厭患せず。
子ども達にとっては、迫りくる炎や熱でさえも、目新しいスリリングな遊びになってしまう。彼ら子ども達を火事から救い出そうとする父親(如来)は、「子ども達が欲しがっていた、羊の車、鹿の車、牛の車があるから、家の外まで取りに来い」と誘い出す。しかして、無事に家の外に出て火事の難を逃れた子ども達には、等しく大白牛車が与えられた。ここに至ってようやく、子ども達は、自分が本当に求めていたものが何だったのか分かったという。

私たちは、自分が何を願っているのか分かっていないことすら、分かっていない。

自分が求める方向が明らかにさえなれば、そちらの方向へと歩みを進めることは、たとえ遅々としたものではあっても、可能であろう。
流れ星が光っている間に3回も心の中で唱えられる程に、自分が進むべき方向が明らかになっているのであれば、間違いなく確実にゴールへと歩みを進めることができる。
しかも、流れ星が光っている程度のわずかなチャンス(とさえ言えない程のチャンス)さえ無駄にしない人は、他のわずかなチャンスも無駄にすることはないであろう。
このような人は、必ずや、その願いを実現するに違いない。

では、そんな境地にまで到達していない私たちはどうすればいいのだろうか。

やはり、自らが何を願っているのか分かっていないということ自体を認識する必要がある。上に見たように、私たちは分かっていないことすら分かっていない。だとすれば、この状況から脱する第一歩は、そのような自らの状況を認識すること以外にはない。

次に、現在の、何を願っているか、何を願うべきかが分かっていない状況は、極めて危険なのだということを理解しなくてはならない。何を願っているのか分かっていないということは、いま自分が、どこにいて、どちらの方に向かっているのかすら分かっていないということだからだ。自らのありさまが分かっていないということは、極めて、危険かつ滑稽なのである。これを、単なる思考実験としてではなく、体験的に確認しなくてはならない。

この2点を同時にクリアするのが、
1. 七夕の短冊には、願いごとを書く。
2. 流れ星を見つけたら、願いごとを心の中で3回唱える。
を、実践してみようとすることである。
そして、実践できない自分に、愕然とすることである。











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