東本願寺長崎教会の境内には、「非核非戦」と刻まれた碑があり、その下には、原爆で亡くなった身元不明の遺骨が納められています。その数は一万体とも二万体とも言われるそうです。配布されたパンフレットには、次のような言葉が印刷されていました。
ただひとつなる罪この碑には、「非核非戦」の文字とともに「共に生きよ」と彫られています。
戦没者たちは決して
敵の砲弾や原爆で
死んだのではありません
戦争を「聖戦」と呼び
美化していこうとする
人間の無明――
そのただひとつなる罪に
よってではないでしょうか
「反核反戦」と「非核非戦」
他者にはたらきかける「反」とともに
自分のうちに問いかける
「非」という語をもって
はじめて自分というものが
あきらかになってくるのです
「核」も「戦」も
他人事ではありません
自分自身の心の中にこそ
「核」や「戦」は存在するのです
「非」とは
私の考え方、生き方、
社会の在り方を問い直す
仏の悲のはたらきなり
「核」とは
人間の「チエ」なり
人間の無明なり
「戦」とは
人間の心の奥深くにある
差別の心なり
「核」や「戦」を、自らの無明が引き起こす〈罪〉と捉えようとする姿勢に心打たれました。
この碑に手を合わせた後、坂を下りてホテルセントヒル長崎に会場を移し、研究発表、記念講演と拝聴しました。
研究発表
記念公演
- 武宮真紹
法蔵菩薩を共に生きる- 松林 大
選択本願悪世に弘む 〜疑情と信心〜- 澤田 毅
3.11(地震と原発)を災害と呼ぶ『我』- 内藤円亮
非はすなわち悲なり ―「悲の教学」について―
質疑応答
- 中島岳志
脱原発の理由- 加来雄之
愚禿の「非核非戦」 ―偽に対し、仮に対す―
コーディネーター:木越 康
全体を通して聞き、私も色々と考えさせられました。
まず、「非核」や「非戦」といったことが、過去の出来事による感情的なアレルギー反応になってしまっていないかといった問いが、被爆地長崎において提出されたことは衝撃的でした。
「○○が原因となって、過去にこんな悲惨なことが起きた。だから、○○には〈とにかく〉反対だ、無くすべきだ」という態度それ自体は、私にはとても自然なことのように思えます。
しかし、この態度が多くの人びとに受け容れられるには、その「悲惨なこと」が、論を俟つまでもなく○○と結びつけて受け容れられていなくてはなりません。○○の存在は当然「悲惨なこと」に帰結するということが多くの人に受け容れられていて、ようやく「○○反対!」という声が受け容れられ得るのです。さもなければ、「○○反対!」という声は「極論に過ぎない」と片付けられてしまい、その声を上げる人たちには奇異の目が向けられることになってしまいます。これでは、運動は、拡がりを見せるどころか、却って縮小していかざるを得ません。
「○○が原因となって、過去にこんな悲惨なことが起きた。だから、○○には〈とにかく〉反対だ、無くすべきだ」という態度それ自体は、私にはとても自然なことのように思えます。
しかし、この態度が多くの人びとに受け容れられるには、その「悲惨なこと」が、論を俟つまでもなく○○と結びつけて受け容れられていなくてはなりません。○○の存在は当然「悲惨なこと」に帰結するということが多くの人に受け容れられていて、ようやく「○○反対!」という声が受け容れられ得るのです。さもなければ、「○○反対!」という声は「極論に過ぎない」と片付けられてしまい、その声を上げる人たちには奇異の目が向けられることになってしまいます。これでは、運動は、拡がりを見せるどころか、却って縮小していかざるを得ません。
翻って考えてみるに、そのような声や声を上げる人に対して顔を背ける人は、何故そのような態度をとってしまうのでしょうか。それは、恐らくは本能的に、「○○反対!」という声の中に、その声を発する人の「我(が)」を嗅ぎ取ってしまうからではないでしょうか。私たちは、自分個人の限られた体験をムリヤリ普遍化しようとする人を、「我の強い人」として嫌います。
今や、「核」も「戦争」も、アプリオリに「悪」と捉える人ばかりがいるわけではありません。原爆投下から70年に垂んとする時間が経過してしまった今、新聞やテレビにすら、これを積極的に考えるべきだといった意見を毎日のように見ることができます。「反対」を唱える人は、こういった人が功利心に冒されていると言います。勿論そういう側面はあるでしょう。だからと言って、「反対」論者の方には功利心が無いとは言い切れないでしょう。「核」や「戦」に反対することでどのような功利が生ずるのでしょうか。何よりもおそろしいのは、自ら(とその行為)を紛れもない「正義」と捉え、それに敵対する存在を「悪」と位置付けてしまうことです。そういった態度は、むしろ、自ら自身を「核(=エゴ、無明)」「戦(=差別心)」のなかに陥れる装置として働きがちです。ここには「共に生きよ」という態度を見出すことは難しく、むしろ「私と共に生きよ」という自己中心的な姿勢に転訛してしまっています。このような態度をとる人に対して、生理的に嫌悪感を抱いてしまうのは、むしろ当然と言えるでしょう。それが個人ではなく集団ならばなおのことです。
「核」や「戦」から全く離れて生活することはできません。むしろ、私たちの日常生活は「核」や「戦」そのものです。
これを防ぐには、自らのありさまを不断に問い直していくような姿勢が必要です。
ところが、これがかなり困難であることは論を俟ちません。せいぜいが、手法・方法の妥当性を問い直すことができるぐらいです。
ここに、宗教や浄土教の可能性を感じることができました。
まだ、自分自身の中でも十分に咀嚼できてはいないのですが……。
「核」や「戦」は如来から遠ざかろうとする姿であると言うこともできるでしょう。ありのままの在り方(如実法)に対して目を背けるありさまは、「凡夫」と呼ばれます。自らが凡夫(煩悩を断ちきろうとすらしていない者)であるということに対して、誠にそうであったと頭を垂れる姿勢はどこから生まれ得るのでしょうか。私ばかりではなく、いま敵対しているものも、ともに浄土(執着から離れた世界)に生まれることができるのだという喜びと確信がなくては、堪えられないでしょう。
今や、「核」も「戦争」も、アプリオリに「悪」と捉える人ばかりがいるわけではありません。原爆投下から70年に垂んとする時間が経過してしまった今、新聞やテレビにすら、これを積極的に考えるべきだといった意見を毎日のように見ることができます。「反対」を唱える人は、こういった人が功利心に冒されていると言います。勿論そういう側面はあるでしょう。だからと言って、「反対」論者の方には功利心が無いとは言い切れないでしょう。「核」や「戦」に反対することでどのような功利が生ずるのでしょうか。何よりもおそろしいのは、自ら(とその行為)を紛れもない「正義」と捉え、それに敵対する存在を「悪」と位置付けてしまうことです。そういった態度は、むしろ、自ら自身を「核(=エゴ、無明)」「戦(=差別心)」のなかに陥れる装置として働きがちです。ここには「共に生きよ」という態度を見出すことは難しく、むしろ「私と共に生きよ」という自己中心的な姿勢に転訛してしまっています。このような態度をとる人に対して、生理的に嫌悪感を抱いてしまうのは、むしろ当然と言えるでしょう。それが個人ではなく集団ならばなおのことです。
「核」や「戦」から全く離れて生活することはできません。むしろ、私たちの日常生活は「核」や「戦」そのものです。
これを防ぐには、自らのありさまを不断に問い直していくような姿勢が必要です。
ところが、これがかなり困難であることは論を俟ちません。せいぜいが、手法・方法の妥当性を問い直すことができるぐらいです。
ここに、宗教や浄土教の可能性を感じることができました。
まだ、自分自身の中でも十分に咀嚼できてはいないのですが……。
「核」や「戦」は如来から遠ざかろうとする姿であると言うこともできるでしょう。ありのままの在り方(如実法)に対して目を背けるありさまは、「凡夫」と呼ばれます。自らが凡夫(煩悩を断ちきろうとすらしていない者)であるということに対して、誠にそうであったと頭を垂れる姿勢はどこから生まれ得るのでしょうか。私ばかりではなく、いま敵対しているものも、ともに浄土(執着から離れた世界)に生まれることができるのだという喜びと確信がなくては、堪えられないでしょう。
―――
他にも実に多くの刺激を受けました。
それはまた別の機会に……(眠くなってきました。)
