私が大学生だったのは、もう20年以上も前のことになる。だから、現在の学生さん達と私の学生時代とが色々な部分で異なっているのは、むしろ当然のことだと言っても良い。私が学生だった頃は、まだバブルの余韻が濃厚で、バブルがはじけたという実感は希薄だった。そういう意味では、私の学生時代が特異だったと言うこともできよう。いわゆる「最近の若い者は……」論にならないよう気を付けつつ、考えてみたい。
それに、どういうところに「違い」を感じたのかを確認しておくことは、自分自身を確認するためにも、それなりの意味があろう。
大抵の場合、今の学生さん達は、私が学生の頃に比べると「人間ができている」ようだ。
「人間ができている」とはどういうことか。
ここでは、「周囲に配慮しつつ、迷惑をかけないようにできる」というイメージをもっている。
とにかく、気配りをする(乃至、気配りをすべきだと考えている)人が多い。「空気を読む」という表現の流行が「KY」という若者言葉が話題になったことに端を発していることにも、若者が気を配ることに神経を使っている様子が窺えよう。
その結果として、学生さん達の行動は、かなり萎縮したものになってしまっているようだ。
「空気を読む」ということは、主導権を「空気」の方に渡すということである。しかしながら、「空気」などという主体は無いから、実質的には、主導権を「放棄」しているのである。
「お任せ」は楽だ。
でも、周囲が常に自分の意に沿うように動いてくれるはずは無い。そこには自他の間に摩擦が生じる。
ここで、周囲に対する反発などが生じても良さそうなものである。私の学生時代ならば、「アイツが悪い」「○○の責任だ」などと他者批判に向かっていた。自分では何もしようとしないくせに、意に沿わないとブーブーと文句を垂れていたのである。一旦放棄したかに見える主体を、ちょっと都合が悪くなるとすぐに取り返そうとしていた。
今の学生さん達を見ていると、「どうすれば良かったのだろうか」とインストラクションを求めることが多いように思う。
自分にとって都合が悪くなったからといっても、すぐには自分が主導権を持とうとしない。謙虚であるとも言えよう。度が過ぎると、いわゆる「指示待ち」ということになる。
その根底にあるのは、「失敗への虞(おそれ)」であろう。こういう指摘はよく耳にする。私もそうだろうと思う。
では、なぜそこまで失敗を忌避するのだろうか。
勿論、世代に関係なく、失敗はイヤなものには違いない。しかしながら、いかに失敗を避けるかに汲々とし過ぎのように感じることが少なくない。
どうしてそんなにも避けようとするのか。
ここからは完全に「想像」なのだが、……。
今の学生さん達は、自分をとりまく社会や世界に対する信頼感が希薄なのではないか。
失敗を極度に恐れるのは、失敗した際のペナルティが極大だと感じるからだ。つまり、失敗すれば、世界は私に対して、救済の手をさしのべるのではなく、ペナルティを科すと感じているのではないか。
今の世の中には、「○○には△▼しろ」というインストラクションが溢れている。
大人が若人に語るべきなのは、「こんなことしていると失敗するぞ」という脅迫ではなく、「こういうことって素敵だよね」と夢を語ることなのではないのだろうか。
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