自分の外部からさまざまなことを取り入れるのには、友人知人との付き合い、読書、講演会、展覧会、等々、さまざまなチャンネルがありうる。しかし、それらを活用するには、金銭のみならず、時間や労力など、少なからぬコスト(対価)がかかる。
無尽蔵にコストをかけられるような人物はいない。
しかし、それらのチャンネルは、維持するだけでも相応のコストがかかるものでもある。友人知人から有益な情報を得ようとすれば、こちらからも相応の情報を与え(続け)て信用を得ていなくてはならない。読書や講演会などには、料金を支払い、会場にまで足を運んだりするだけでは足らない。それらのものから相応の情報を得るには、一定以上の読解や聴取の技術の熟練が必要だからだ。芸術作品などから情報を得るためには、感性を磨いていなくてはならない。信用、技術、感性、いずれにせよ、コストをかけ続けなければ、その能力を維持できない。
多数あるチャンネルに等しくコストをかけることはできない。個々人毎に異なる好みもある。したがって、コストのかけ方に人によって偏りが生じるのは自然なことであろう。文学部の大学教員である私にとっては、書籍に比重がかかる。他の人には他のところに比重がかかるのが自然であろう。人によっては、偏りをより少なくするように努力している人もいるだろう。
今の学生さんは、必ずしも私が学生だった頃と比べて経済的に困窮しているとは思えない。それにも拘わらず、今の学生さんの多くが、さまざまな事柄を取り入れるコストに対してかなり神経質になっているように感じる。より直接的に表現すれば、異様にコストを惜しんでいる。
いずれにせよ、コストを支払うことなくそれらのチャンネルを維持することはできない。まして況んやより豊にすることなどは。
さて、ここまで書いて気付くのは、同様のことを、私たちの世代も上の世代から言われていたということだ。
私たちが言われてきたことを今度は下の世代に対して同様に繰り返しているだけなのか。いわゆる「今の若いヤツは……」論の一種でしかないのだろうか。
もちろん、そういう部分もあるだろうが、むしろ、これは世代を追う毎に強まっていく傾向と考えた方が良いかも知れない。
私たちは、なるべく少ない対価で多くのものを得ようとし過ぎなのではないか。効率ばかりを求め過ぎなのではないか。
効率がよいことは、決して悪いことではない。しかし、支払う対価をなるべく少なくしていこうとする傾向は、獲得されるものの価値を矮小化していくことにも繋がる。なるべく「得」しようとしてきた結果として、さまざまなチャンネルから得られる価値を軽んじてしまうことになったのではないのか。
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