2014年6月12日木曜日

平和を求めることは、往々にしてテロリズムを生む

 授業で、「平和を求めることは、往々にしてテロリズムを生む」と言ったら、キョトンとした顔が目についた。

 授業で言ったことを反対側から説明し直せば分かりやすくなるかな。




 随分以前のCMだと思うが、こんなCMがYouTubeにアップされていた。


 「平和」は、「争いが無い状態」であるという。
 ナルホド。争いが無くなるのを悲しむ人はまずいないだろう。争いが無くなるのは素晴らしい。ここに異論は無い。
 だが、「争いが無い」ということも素晴らしいのだろうか。

 実際に「争いが無い世界」を実現しようとしたらどうだろうか。

 そのような世界は、「争いが〈結果として〉起こらない世界」ではなく、「争いが起こることを〈許さない〉世界」になってしまうことだろう。



 いかに善意をもって誠実にことに当たろうとも、誤解やすれ違いを防ぐことはできない。

 「争いの無い世界」では、誤解やすれ違いを糾そうとした者が「争いを起こした者」として非難されることになってしまう。争い自体が悪とされ、それを引き起こした者もまた悪とされてしまう。争いが起こるとき、争いの原因となった事柄にまで遡って見ることができる人はマレだ。大抵は争いそのものに目を奪われてしまう。結果として、「争いの無い世界」を求めることは「争いが起こることを〈許さない〉世界」を結果する。

 「争いが起こることを〈許さない〉世界」では、誤りを糾そうとする者は、ギリギリまで我慢を重ねねばならなくなる。誤りを正そうとすれば、自らが「争いを起こそうとした者」として糾弾されることになるからだ。我慢をするとは、負のエネルギーを溜め込むことである。その負のエネルギーは臨界点に至るまで解放されることはない。臨界点に達したエネルギーは、恐らくは「テロリズム」のような形で、唐突にしか表出されないだろう。

 現在様々に施されている「テロとの戦い」は、臨界点を引き上げることによってテロにまで至らないようにしているに過ぎない。「臨界点を引き上げる」とは、ガマンを強いることだと言っても良いかも知れない。その根本である「負のエネルギーが蓄積されるのを防ぐ」方向には、ほとんど努力が向けられていない。なぜならば、負のエネルギーが蓄積されるのを防ぐにはどうすれば良いのか、その直接的具体的方法が、思い浮かばないからだ。方法が分からなければ、私たちは立ちすくむしかない。
 具体的な方法が分からないのは当然のことで、「具体的な方法」は個別の方法にならざるを得ないからだ。それにも拘わらず、「どうすれば良いか」を考えるとき、私たちはなにがしか一般化できる手法を求めてしまう。
 その一方で、私たちはただ立ちすくみ悲しんでいることに堪えられない。何らかの行動を起こさねばならないと脅迫的に感じてしまう。で、起こす行動といえば、「テロとの戦い」的な表層的なものに終始する。表層的なことを行っても、キリがない。キリがないから消耗する。消耗するので、それは極めて重大な仕事なのだと思い込む。それで、ますます「テロとの戦い」を強化する。マキャベリズムのような世界が現出することになる。

 結果として、当初は「誤りや誤解を正したい」だけだった者も、怒りを溢れさせ過激な行動をとるしかなくなる。

 「争いが無い」ということを固定的に捉え、その実現を図ると、むしろ抑圧と恐怖とが支配することになってしまう。
 その一方で、私たちはものごとを動的には捉えられない。
 その事実の確認と悲歎無くしては、行為の反作用に苦しめられることになる。




 むぅ。
 却って分かりにくくなったかな。

 私自身の中で十分に整理ができていないことが原因かも知れない。

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