2015年11月22日日曜日

立ち止まるということ

 東本願寺で報恩講が勤まっている最中、大谷大学報恩講が勤められた。

 その後、「親鸞エッセイコンテスト 親鸞さんに、いま、伝えたいこと」の表彰式が執り行われた。

【親鸞エッセイコンテスト表彰式】大学報恩講式典の後、親鸞エッセイコンテスト「親鸞さんに、いま、伝えたいこと」の表彰式を挙行しました。昨日の湖西セミナーキャンパスでの交流会で仲良くなった中高校生部門の受賞者たちは、みんなで緊張をほぐしなが...
Posted by 大谷大学 on 2015年11月21日


 授賞式に参加した私たちには、簡易製本された「受賞作品集」が配られた。

 パラパラとめくっていると、ちょっと気になるフレーズがあった。引用しよう。
 私には恐れていることがある。それは私も含め皆、誰かの苦しみを、理解しているだなんて言えないのを、忘れてはいやしないかということ。そして私たちはこれを忘れたまま、すさまじいスピードで、その速さが故に、時には感情の高ぶりにまかせ、思慮に欠けた考えを発信できてしまうということだ。
 今この時代を生きる私たちに必要なのは、分かり得ない苦を自覚し、熟考することではないだろうか。分からないから諦めるという選択肢がないのを、苦しみ・助けられ生きる私たちは知っている。だからこのスピードの時代に、立ち止まってみる必要があると思うのだ。
堀池 萌水(大谷高校第3学年)-優秀賞
立ち止まるということは、「このスピードの時代」にあっては、非常に勇気の要ることである。
 その一方で、立ち止まって考える必要性はあちこちで言われている。あちこちで言われているのだが、一向に社会の雰囲気が方向転換しつつあるという話を聞かない。
 なかなかその勇気を持てないからだ。

 ひょっとしたら、「スピードの時代」なのは、「今この時代」に限ったことではないのかも知れない。
 人間の文明は、基本的に効率化を「進歩」と捉えてきた。つまり、どの時代でも「それ以前にはないくらいにスピードが要求されるようになった」時代だったのである。

 宗教が、つねに物語という形式で伝えられてきたのは、やはり、強烈な感情移入無しには、立ち止まることが難しいからではなかったのか。



2015年5月5日火曜日

ネットを使うのはデフォです

 大学では、オリエンテーションの一環として学内LANの使い方を説明する機会が設けられている。コレは、大谷大学に限らず、どこの大学でもなされていることだろう(プリントを配布して終わりというところもあるかも知れないが……)。

 で、この時には、「ネットではこんな危険がありますよぉ」、「ネットを経由して、他人や自分にこんな損害を与えてしまうことがありますよぉ」、などと、実例を交えて色々と脅される。

 このオリエンテーションの様子を見ていて感じたことがあったので、忘れない内に書いておこう。

 こういった、ネットリテラシーに関するオリエンテーションは、「放っておいても、どうせお前らはネットを使いまくるんだろぉが」という前提でなされている。いろんな事例を見ることによって、「あぁ、ここはあんまり悪ノリしちゃマズいな」と、暴走を事前に食い止めてもらうのが目的である。

 ところが、一部には、「ネットを使うと色々と良くないことが起こるみたいだから、ネットはなるべく使わないようにしよう」などと考える学生さんがいる。
 
 違うからね! それ、根本的に間違っているからね。


2015年4月5日日曜日

私は自由になりたいのではなかったのか

 先日、たまたま近くを通りかかったオッサンの、汗と脂の饐えた臭いに、思わず顔をしかめた。オッサンは、いわゆるホームレスと呼ばれるような生活をしていることがすぐに分かる。もとは華やかな色であったろう外套は、かなり暗い色になるまで汚れている。サイズは明らかに大き過ぎる。
 私は、この手の臭いをかいだのは久し振りだったことに気付き、何と言っていいか分からぬ気持ちになった。

2015年4月2日木曜日

友達と仲間

 大谷大学のウェブ企画で、「OTANI TALK」というものがある。
 今年度は、私もこれに参加することになった。

 で、年度が替わる4月1日を期して2015年度版が公開された。
 この中で、私も学生さんと対談をしている。

OTANI TALK 2015

「OTANI TALK 2015 仏教学科」

2015年3月16日月曜日

国民の義務は楽しみになり得るのか

 ようやく最終日になって、確定申告の書類を提出することができた。



 いつも、国税庁webページの「確定申告書等作成コーナー」で入力をしている。
毎度毎度感じさせられるのは、このユーザーインターフェイスのショボさは何とかならんのだろうか、ということである。分かりやすくも使いやすくもない。勿論、デザイン的にも優れているとは思えない。

 1箇所からの給与所得だけならば、源泉徴収されている分だけなので、年末調整だけで事足りてしまう。だが、2箇所以上から給与をもらうと、確定申告をしなければならなくなる。納税というのは、国民の義務の一つに数えられている。逆に言えば、義務にでもなっていないとやる気が起きない位に面倒くさい。

 もっとも、この面倒くさい作業を通して、自分がどれだけ納税しているのか(どれだけしか納税していないのか)、或いは、どれだけの社会保険料が引かれているのか、を再確認する機会になる。こういう機会でもなければ、税金よりも社会保険料の方が高額になっていることにすら、気付くことができたかどうか疑問だ。
 その意味では、この面倒な作業を年1回行うことは、かなり意義深いことだと思う。もっとも、ほとんどの人が源泉徴収だからこの程度の事務作業量で済んでいるのであって、大半の人が確定申告するようになったら、国税庁の職員を倍に増やすぐらいでは間に合わないかも知れない。
 だから、確定申告ができるというのは、けっこう貴重な機会をもらっていると言うべきなのかも知れない(勿論、なかなかそんな思いにはなれないけど)。

 それにしても、税金のこの「ムリヤリ持って行かれる」感は何とかできないものだろうか。
 税に対するこの不満の元になっているのは、自分でコントロールできる部分が無いということでは無いか。納税額についてコントロールできる部分はほとんど無い。また、税金の使い道に関しては、ふるさと納税をすることによってわずかに関与できるほかは、選挙で議員を選び云々といった迂遠な方法しかない。

 私たちは、自分がコントロールできる(できている)と感じられると、さまざまな手間は、面倒なものではなく、面白いもの、工夫ができるものと感じられるようになる。

 ふるさと納税だけではなく、もっと他の形で使途の指定ができると良いんだろうけど。

 認定を受けたところに寄付をして、その証明書を使って確定申告すると、その分を所得から差し引いてくれたりする。これを税からの控除にしてくれるのならば、大分違うだろうになぁ。

 等々と、色々と思ってしまうのだが、いずれも制度変更を伴うとなると、それだけで色々と混乱が予想される。
 こうすれば問題ないなどというような万能な解答がないというのも、税金というものの特徴かも知れない。

2015年3月10日火曜日

棚を作る

 職場の個人研究室を引っ越した。これまで私の個人研究室があった建物が建て替えとなるためである。

 研究室を引っ越すと、当然ながら書棚のレイアウトが変わる。書棚のレイアウトが変化したならば、そこにどのように本を収めるかも大きく変化するのが当然である。特に、今回は収容量が大きく減少したので、「どのように」だけではなく、「どれを」ということについても考えなくてはいけない。
 どのような書籍をどのように書架に配置するかは、書店にとっては極めて重要なのだと聞く。どの本をどのように配架するかで売れ行きが大きく変わるのだという。これを「棚をつくる」というらしい。

2015年2月15日日曜日

見入る

 息子が通っている小学校で「まつり」があった。
 これは、学校主催でもPTA主催でもない。PTAは勿論のこと、社会協議会や体育振興会、子供会、地域の音楽サークルやダンスグループ、ママさんバレーチームまで、小学校に関わる様々な団体がゴチャゴチャと集まる、不思議なイベントである。どこが主催なのか明確でないにも拘わらず、市長やら教育長まで挨拶に来る(地域選出の国会議員や府会議員も勿論やって来る)ところにも、その「不思議さ」が表れている。

各出し物の後ろに括弧書きで主催団体が記されている。これ以外にも、受付や駐車場整理、来賓接待などで協力している団体もある。
 今回、この「まつり」のPTA主催の出し物として、大谷大学児童文化研究会と大谷大学落語研究会とに協力してもらった。

 落研のTwitterでは、さっそく報告が上がっていた。