2016年8月26日金曜日

「否定」

 否定は、否定の対象に意識的であることを要請する。対象を意識することなく、対象を否定することはできないからである。

 しかし、否定は蔑ろにすることとも異なる。ものごとは網の目のように絡み合っているものなので、「Aを否定するつもりでしかなかったにもかかわらず、Aに関連するBをも否定することになってしまった」ということが起こり得る。これが「蔑ろにする」ということである。このような事態は、否定している本人からも周囲の人間からも受け入れられない。大抵の場合「カッコ悪い」と評される。

 勿論、「Aを否定する」ということ自体を否定することもあろう。
 だが、そうなったとき、否定の対象は既に遷移してしまっている。

 そういう意味では、否定者の存在は、命題そのものを明確化する働きをも持つ。

 

2016年8月18日木曜日

教育の値段

 ちょっと前の記事だが、もん「お金を払う"価値"ってなんだ?基本無料ゲームで価値観がボロボロになっていることに気がついた」『Damonge Tech』という記事を読んだ。

 記事の趣旨は、タイトル通りで、特に説明は要らないだろう。記事の最後は次のような文がある。

論理的な頭で考えればコスパの良いものにお金を費やした方がパフォーマンスは当然良いわけだから、幸福の最大量は大きくなる。
それなのにコスパの悪い投資効果の低い、金を払う価値が低いものにこそ"価値"を見いだして、最大の価値を提供するものを価値がないと断じてしまう脳みそになっていることに気がついてしまった。
こりゃあ社会の闇だ。いつの間にか洗脳され、価値観がズタボロにされていた。
困るのは僕の財布とゲーム業界の未来。脳内麻薬だけで真に価値あるものを見定められなくするクスリが市場に出回り、やがて麻薬に埋もれて名作は死んでいく。
 気が付けば、今や無料のモノがあちらこちらにあふれている。
 多くのものが無料になっていく中で、無料化の波がもっとも激しいのは情報であろう。

 クリス・アンダーソン『フリー』に紹介された、スチュアート・ブランドの言葉が思い浮かぶ。
 一方で、情報は高価になりたがる。なぜなら貴重だからだ。正しいところに正しい情報があれば、私たちの人生さえ変わりうるのだ。他方で、情報はフリーになりたがる。なぜなら情報を引き出すコストは下がりつづけているからだ。今はこの二つの流れがせめぎ合っているのだ。
  この言葉を引用した後に、著者クリス・アンダーソン自身が注意を促しているように、この言葉の後半ばかりが注目されるようになってしまったが、今ここで注目したいのは、その前半部分である。「情報は高価になりたがる(information wants to be expensive)」という。

 現在の日本において、教育は極めて高価な「情報」である。大学教育が非常に高額であるのは論を俟たないが、本来は無料であるはずの義務教育でさえ極めて高額な費用がかかるのが実情だ。
 だが、単に知識を手に入れるためだけならば、ネットを用いればかなりの部分が無料で手に入れられる。放送大学の授業は、テレビなどの受信設備さえあれば誰でも無料で受講可能だ。

 では、教育もまたこのまま無料化の方向に突き進んでいくのであろうか。
 一部においてはそうだろう。だが、単に情報をショーケースに並べただけでは「教育」にならないのではないか。そして、そこにこそ、教育が高価である根拠がなくてはならない。それはどこなのか、どれ程の価値があるのか、十分に議論されその認識が共有されなくてはならない。

 では、教育が高価である根拠はどこにあるのだろうか。
 今後ますます情報のフラット化が進んでいくであろうから、資格認定以外に、対面教育がどこに価値を持っているのかを丁寧に議論していく必要があるだろう。(もちろん、議論の結果、さほど価値が無いということになってしまうかも知れないが。)

 徐々に、ものの値段がコストから算出されるものではなくなってきている。
 だが、いかなるものも、コスト無しで産出することは出来ない。だとすれば、無料で配付されるものには、その背後に何らかの「コスト回収機構」がなくてはならない。
 また、あらゆるものが商品化され、価格が付けられている状態では、金銭の数字に表すことは出来ないなどと勿体振ることも却って不誠実だ。

 教育に携わる者は、みな、自らが価値ある行為を行っていると信じている。
 だが、教育とは、基本的には、価値の再生産である。新たな価値を創出することを目的とするものではない。少なからぬ社会で学校教員は尊敬されながらも必ずしも高給ではないのは、教師が従事する教育という行為が、新しい価値を生み出すことよりも、既存の価値の再生産にあるからだろう。
 もっとも、教育がなければ、新しい価値が創り出されることはない。その意味では、教育は価値創出のための基礎作りだと言える。

 そのような価値とはどのようなものなのか。
 正直、私自身の中では、まだ漠然としていて、言葉にまではならない。


2016年8月1日月曜日

宗教の難しさ

 言うまでもなく、宗教の本分は、世間の役に立つ人間となることではない。
 仏教が自らを「出世間の法」と呼んできたように、宗教的価値は世間的な価値とは必ずしも連動しない。

然し乍ら、宗教も世間における営みであることには変わりはない。だから、そこには様々なジレンマが生ずる。

 優れた宗教者は、往々にして世間的には尊敬されるような存在ではない。
 そもそも仏教の教祖である釈尊からして、世間の価値観に照らせば、ロクな生涯を送っていない。
 生まれて間も無くに片親を亡くし、青春の日々を引き籠りで費やし、家庭責任や社会責任を放棄して家出し(出家)、住所不定無職のまま人生の大半を過ごした挙句に、食中毒を起こして遂には要介護状態になって、最期は木の根元に野垂死にした、というのが釈尊の生涯である。つまり、世間的な価値観では、全くと言っても良いぐらい尊敬できる要素が無い。
 真宗で大切に伝えられてきている妙好人も、隣人としては傍迷惑な人たちでしかない。
 鳩摩羅什という人は、漢訳した仏典が大変大きな影響を与えたので「名翻訳家」などともてはやされているが、彼自身は翻訳という仕事に然程大きな意義を認めていたわけではなかった。また、鳩摩羅什の訳語選択は、彼自身よりはスタッフの功績が大きいことが分かっている。

 すなわち、世間的な価値においては、大した価値を創出したわけではない。

 だが、彼らは、出世間においては、確かに最高の価値を見出したのである。

 そのことを、世間に伝えようとすれば、世間に通用する表現を用いなくてはならない。

 例えば、宗教では真実が擬人化されて表現されることが多い。神やブッダが私自身と同様に意志や感情を持つ存在として描かれる。

 龍樹が二諦を説いて、第一義諦(真実そのもの)のみならず俗諦(世俗的な慣習に従って表現された真実)をも重視したのも宜なることであった。仏教における「方便」の重視も同根であろう。
 しかしながら、この「世間に通用する表現」というのが難しい。