ちょっと前の記事だが、もん「
お金を払う"価値"ってなんだ?基本無料ゲームで価値観がボロボロになっていることに気がついた」『
Damonge Tech』という記事を読んだ。
記事の趣旨は、タイトル通りで、特に説明は要らないだろう。記事の最後は次のような文がある。
論理的な頭で考えればコスパの良いものにお金を費やした方がパフォーマンスは当然良いわけだから、幸福の最大量は大きくなる。
それなのにコスパの悪い投資効果の低い、金を払う価値が低いものにこそ"価値"を見いだして、最大の価値を提供するものを価値がないと断じてしまう脳みそになっていることに気がついてしまった。
こりゃあ社会の闇だ。いつの間にか洗脳され、価値観がズタボロにされていた。
困るのは僕の財布とゲーム業界の未来。脳内麻薬だけで真に価値あるものを見定められなくするクスリが市場に出回り、やがて麻薬に埋もれて名作は死んでいく。
気が付けば、今や無料のモノがあちらこちらにあふれている。
多くのものが無料になっていく中で、無料化の波がもっとも激しいのは情報であろう。

クリス・アンダーソン『
フリー』に紹介された、スチュアート・ブランドの言葉が思い浮かぶ。
一方で、情報は高価になりたがる。なぜなら貴重だからだ。正しいところに正しい情報があれば、私たちの人生さえ変わりうるのだ。他方で、情報はフリーになりたがる。なぜなら情報を引き出すコストは下がりつづけているからだ。今はこの二つの流れがせめぎ合っているのだ。
この言葉を引用した後に、著者クリス・アンダーソン自身が注意を促しているように、この言葉の後半ばかりが注目されるようになってしまったが、今ここで注目したいのは、その前半部分である。「情報は高価になりたがる(information wants to be expensive)」という。
現在の日本において、教育は極めて高価な「情報」である。大学教育が非常に高額であるのは論を俟たないが、本来は無料であるはずの義務教育でさえ極めて高額な費用がかかるのが実情だ。
だが、単に知識を手に入れるためだけならば、ネットを用いればかなりの部分が無料で手に入れられる。放送大学の授業は、テレビなどの受信設備さえあれば誰でも無料で受講可能だ。
では、教育もまたこのまま無料化の方向に突き進んでいくのであろうか。
一部においてはそうだろう。だが、単に情報をショーケースに並べただけでは「教育」にならないのではないか。そして、そこにこそ、教育が高価である根拠がなくてはならない。それはどこなのか、どれ程の価値があるのか、十分に議論されその認識が共有されなくてはならない。
では、教育が高価である根拠はどこにあるのだろうか。
今後ますます情報のフラット化が進んでいくであろうから、資格認定以外に、対面教育がどこに価値を持っているのかを丁寧に議論していく必要があるだろう。(もちろん、議論の結果、さほど価値が無いということになってしまうかも知れないが。)
徐々に、ものの値段がコストから算出されるものではなくなってきている。
だが、いかなるものも、コスト無しで産出することは出来ない。だとすれば、無料で配付されるものには、その背後に何らかの「コスト回収機構」がなくてはならない。
また、あらゆるものが商品化され、価格が付けられている状態では、金銭の数字に表すことは出来ないなどと勿体振ることも却って不誠実だ。
教育に携わる者は、みな、自らが価値ある行為を行っていると信じている。
だが、教育とは、基本的には、価値の再生産である。新たな価値を創出することを目的とするものではない。少なからぬ社会で学校教員は尊敬されながらも必ずしも高給ではないのは、教師が従事する教育という行為が、新しい価値を生み出すことよりも、既存の価値の再生産にあるからだろう。
もっとも、教育がなければ、新しい価値が創り出されることはない。その意味では、教育は価値創出のための基礎作りだと言える。
そのような価値とはどのようなものなのか。
正直、私自身の中では、まだ漠然としていて、言葉にまではならない。