2014年6月8日日曜日

喜捨

 ブログに限らず、文章を書いていると、なかなかまとまらずに往生することがある。
 このブログにしても、「下書き」は毎日1本以上増えているにも拘わらず、実際に公開にまでこぎ着けることができる記事はほとんど無い。

 原因は明らかだ。



 1本の記事に色んなことを詰め込もうとし過ぎなのだ。

 あれもこれも詰め込もうとするのは、結局、軽重の判断が出来ていないということである。何が大事なのか、明確にできていないから、何も捨てられないのだ。

 何かを捨てられるというのは、捨て去られるものの価値を認めていないということではない。どうしても捨て去ることができないものが明らかになっているということなのだ。

 経典を見ていると、孝養父母が大事とかいった表現は、結構見ることができる。しかし、釈尊自身が、父母の孝養をかなぐり捨てて、出家したのであった。そしてまた、孝養父母を説いている経典が出家の素晴らしさを説くということもまた珍しくない。
 仏教の伝統においては、孝養父母に価値を認めてきた。だが、それは、何を差し措いてでも尊重すべきこととされてきたわけでもないのである。

 仏教において喜捨が説かれるのは、捨てることによって大事にすべきものがより明らかになるからであろう。捨て去られるものに価値が無いから喜んで捨て去るのではない。
 逆に言えば、いかにそれに価値を認めていようとも、より大切にすべきもののためには捨て去らねばならないのである。

 文章は、他者と共有するためにある。
 いかに豊富な情報が込められていようとも、伝わらないのでは元も子もないのだ。

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