2014年6月30日月曜日

大学生の「生徒化」は誰のせいか。

 舞田敏彦氏の数値データによる指摘は、実際に教育に携わっている者にとっては、日々感じていることを数値で裏付けられたように感じられ、いつもウンウンと肯きながら読んでいる。


 そんな中で、特に気になった記事がコレである。



 データえっせい: 大学生のマジメ化・ウチ化 (2014年6月24日)




 「最近の大学生は、マジメになってきたけど、とんがった学生が少なくなってきた」といったことは、ことある毎に同業者から聞かれるし、私も何度か口にしたことがある。

2014年6月29日日曜日

人間、やめますか……

 自宅に帰ったら、無印の通称「人をダメにするソファ」が2つ来ていた。


 2つ?!

買ってしまった、Sony RX100 Ⅲ

 Facebookの「ともだち」であるNさんがSony RX100を購入したという投稿を読み、気が付いたらRX100 Ⅲをネットでポチっていた。


2014年6月23日月曜日

私が夏でも上着を着ているワケ

 私は、夏でもネクタイを締めて上着を着ていることが多い。

 これには、とてもとても浅薄なワケがある。


2014年6月19日木曜日

howとwhy

 日本気象協会のサイトに、「北海道で長雨 最長記録を更新中の理由」(財目かおり)という記事が載っていた。
 ここでは、北海道で随分長い間雨が続く「理由」として、「北緯40度近辺での上空の風の流れが弱い」、「南から湿った空気が流れ込んできている」といったことを挙げて説明している。

 ナルホド。分かりやすい。

 その一方で、こういったことって「理由」なんだろうか、という疑問が浮かんできた。

2014年6月15日日曜日

「知識は世界への窓口である。」

 梅雨である。

 この時期はジメジメとしていて、お世辞にも心地良いとは言えない。
 その上、雨に降られると、傘のさしかたが下手な私はかなり濡れてしまう。
 ヒドい土砂降りの中でも、小さな折り畳み傘だけで、つま先の一部しか濡らさずに歩いて行く人がいる。どうしたらあんな風に歩けるのだろうか。私なんぞは、足もとはもちろんのこと、肩やカバンまでビショビショになってしまう。
 濡れて嬉しいわけはない。

 私にとっては、梅雨の時期は、文字通り「鬱陶しい」以外の何ものでもない。

 だが、この時期を心待ちにしている人もいるのだという。

2014年6月13日金曜日

埃を寄せ付けない誇り

 話題になっているという、ファミリーマート店員の加藤さんの様子を撮影した動画を見た。
 「キレッキレ」という形容句が適切なのかどうかはともかく、アメ横のオッチャンみたいな威勢の良さとオーバーアクションで、ついつい見入ってしまうのは間違いがない。



2014年6月12日木曜日

平和を求めることは、往々にしてテロリズムを生む

 授業で、「平和を求めることは、往々にしてテロリズムを生む」と言ったら、キョトンとした顔が目についた。

 授業で言ったことを反対側から説明し直せば分かりやすくなるかな。


2014年6月10日火曜日

会えるアイドルと見仏

 龍谷ミュージアム館長の入澤崇先生のツイートに次のようなものがあった。


※入澤先生は、2012年度の大谷大学仏教学会公開講演会に来て頂いた。→仏教学科blog

 ひょっとすると、「AKB48に会いたい」ってのと、見仏を期待する人の心情とは、根本的なところではさほど違いが無いのかも知れない。

2014年6月8日日曜日

喜捨

 ブログに限らず、文章を書いていると、なかなかまとまらずに往生することがある。
 このブログにしても、「下書き」は毎日1本以上増えているにも拘わらず、実際に公開にまでこぎ着けることができる記事はほとんど無い。

 原因は明らかだ。

2014年6月7日土曜日

信頼

 私が大学生だったのは、もう20年以上も前のことになる。だから、現在の学生さん達と私の学生時代とが色々な部分で異なっているのは、むしろ当然のことだと言っても良い。私が学生だった頃は、まだバブルの余韻が濃厚で、バブルがはじけたという実感は希薄だった。そういう意味では、私の学生時代が特異だったと言うこともできよう。いわゆる「最近の若い者は……」論にならないよう気を付けつつ、考えてみたい。
 それに、どういうところに「違い」を感じたのかを確認しておくことは、自分自身を確認するためにも、それなりの意味があろう。


読書と負荷

 退勤時、列車の中で読む本は、小説を選ぶことが多い。疲れているので、「軽い」読み物をつい選んでしまうのだ。
 だが、ちょっと考えると、これは不思議な表現だ。
 ノンフィクション本と比べて、「小説」は、脳みその負荷からいえば決して「軽い」読み物ではないはずだ。
 ノンフィクションであれば、読み取った内容を現実世界に対応佐瀬だけで済む。
 それに対して、小説などといったフィクション本は、そこに書かれている事柄を現実に対応させるだけでは「読んだ」ことにならない。
 小説などは、基本的にそこに書かれていることは「作り話」であるという前提で読む。しかしながら、何から何まですべてがこの現実世界に対応しないというわけではない。実在の土地や人物が出てくることもあれば、歴史的な事柄が重要な役割を果たしていることもある。そういった場合は、自分の記憶にある知識と結びつけなくてはならない。その上で、現実には対応するものがない事柄について想像力を働かせなくてはならない。更に感情移入という「重い」作業を強いられる。こう考えると、フィクションの方が、幅においても、深さにおいても、より処理量が多い筈だ。
 それにも拘わらず、ノンフィクション系よりもフィクションの方が「軽い」気持ちで読むことができる。

 どうしてこんなことになるのだろうか。