2016年3月27日日曜日

民度

 もう少しすると、湖西線乗客の平均的マナーが劣化する季節がやってくる。車内で宴会を開いては、日本酒やビールの臭いをスルメのニオイと一緒に充満させるのである。

 観光都市京都では、中国人観光客の姿をみかけることも多くなった。中国人観光客のマナーが悪いと、批判的な記事を目にすることも多くなった。確かに、現在の日本人一般のやり方にそぐわない部分も少なくないし、「マナーが悪い」と言っても良いのかも知れない。

 だが、かつての日本人だって、決してマナーが良いわけではなかった。

 JR在来線の車内が禁煙になったのは、嫌煙運動が盛んになる前のことである。車内の灰皿を撤去して禁煙にした理由は「清掃費用の削減」であったと聞く。健康増進だとかそんなことは全く語られることはなかった。
 私の記憶の中でも、かつての国鉄時代の客車内は、決して美しいものではなかった。

 このように考えると、ひょっとすると、所謂「マナーの良さ」というものは、成長の欠如を表すものなのかも知れない。多少のブレはあるとしても、グイグイと伸びている時には、マナーというものの優先順位が大きく下がってしまうのだろう。

 そうだとすると、現在の日本が、所謂「民度」を一つのウリにしているのは、日本が極めて低成長の状況にあることを表していると言っても良いのかも知れない。


 もちろん、マナーが下がれば社会が成長するということはないだろう。しかし、マナーを過度に重視するような社会は、新しい地平へ延びていこうという勢いを持っていないのだと言うことはできよう。


 そもそも、個人のレベルで見てみても、他人の至らない所を指摘しようとする人に伸び盛りの人はいないであろう。自分のいる地平から一歩でも踏み出していこうとするような人は、むしろ、他者に自らが持っていないもの、知らないものを見出し、そこに随喜するのではないだろうか。





2016年3月26日土曜日

【メモ】中国における出家者と生産

 「末法の会」(学生さんとの読書会)で、このような文に出会った。


師共慧綽種苣拾橡安貧無慼
(灌頂『隋天台智者大師別伝』T50,193b)
師(=智顗)は慧綽と共に、苣(=レタスのような野菜)を種へ橡(とちのみ)を拾ひ、貧に安じて慼(うれ)ひ無し。

 ちょっと驚いたのは、ここでは僧侶が生産活動を行うことを頭陀行の実践として積極的に捉えていることだ。

 仏教僧は元々は生産活動を禁じられていたが、托鉢がままならない中国に伝わってそれらが認められるどころか積極的に評価にされるようになったと聞いている。釈道安が「王法に依らざれば仏事立ち難し」と言ったのは、中国における托鉢の困難性を示すものとしても読み取れる。

 後になれば、「一日働かざれば一日食はざれ」等という言葉が出るようになるが、仏教伝来当初からではないはずだ。

 中国仏教において、生産活動が積極的に捉えられるようになったのは一体いつ頃のことなのだろうか。



 ま、仏教経済史の研究を探せば、こういうことを調べたものもあるのだろうけど。

 取り敢えず探し得たのは次のもの。

道端良秀「中国仏教経済における生産の問題」『印度学仏教学研究』32, 1968, pp. 64-67 (PDF)
 今のところ、これが思想にどのように影響するかまでは考えられていない。