2015年4月5日日曜日

私は自由になりたいのではなかったのか

 先日、たまたま近くを通りかかったオッサンの、汗と脂の饐えた臭いに、思わず顔をしかめた。オッサンは、いわゆるホームレスと呼ばれるような生活をしていることがすぐに分かる。もとは華やかな色であったろう外套は、かなり暗い色になるまで汚れている。サイズは明らかに大き過ぎる。
 私は、この手の臭いをかいだのは久し振りだったことに気付き、何と言っていいか分からぬ気持ちになった。



 饐えた垢の臭いは決して心地良いものではない。これを不快に思ったというだけならば、どうということはない。それはほとんど生理反応に属する。

 問題なのは、私が長らくこの臭いから遠ざかっていたということだ。たまに乗るバスやタクシーの車窓から景色から、一定数以上のホームレスが相変わらずいることは知っている。つまり、物理的には、私は彼らと隔絶した世界に住んでいるわけではない。しかし、あの臭いをかぐまでは、ホームレスの人たちは、完全に私の意識に上ってくることは全くなかった。
 見ていた。知っていた。気付いてもいた。それにも拘わらず、私は彼らの存在を意識から消していたのだ。恐らくは、彼らのような存在を忘れていたかったのだ。
 ひょうっとすると、無意識の内に彼らの存在を意識しなくても済むような空間を選んでいたのではないか。もっとも、それはある意味当然のことで、殊更に論うほどのことではないかも知れない。それでも何となくスッキリしないものがある。

 私は、世界を、狭く、均一なものとして感じたがっている。
 もちろん、実際の世界は、広く、多様なものだ。
 
 このギャップを怖がっているのかも知れない。

 自らの卑小さを知ることは、自らの外側に拡がる世界の広さを認めるということである。自らの外部に無限の世界が拡がっているという認識は、私には無限の自由があるということを結果する。

 この世界が、自らに都合の良いものだけによって構成されるとの認識は、私を極めて不自由にする。
 
 私は、自らの卑小なるを、世界を狭小なるものと見做すことによって、相対的に自らを肥大化させて補おうとしていたのではないのか。

 こういったことは、単なる考えすぎかも知れないし、単なる妄想に類するものなのかも知れない。それでも、自らの姑息な一面を突きつけられたような気がしたのだった。

 フロムの『自由からの逃走』をもう一度に見直さねばならないか。

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