2016年8月1日月曜日

宗教の難しさ

 言うまでもなく、宗教の本分は、世間の役に立つ人間となることではない。
 仏教が自らを「出世間の法」と呼んできたように、宗教的価値は世間的な価値とは必ずしも連動しない。

然し乍ら、宗教も世間における営みであることには変わりはない。だから、そこには様々なジレンマが生ずる。

 優れた宗教者は、往々にして世間的には尊敬されるような存在ではない。
 そもそも仏教の教祖である釈尊からして、世間の価値観に照らせば、ロクな生涯を送っていない。
 生まれて間も無くに片親を亡くし、青春の日々を引き籠りで費やし、家庭責任や社会責任を放棄して家出し(出家)、住所不定無職のまま人生の大半を過ごした挙句に、食中毒を起こして遂には要介護状態になって、最期は木の根元に野垂死にした、というのが釈尊の生涯である。つまり、世間的な価値観では、全くと言っても良いぐらい尊敬できる要素が無い。
 真宗で大切に伝えられてきている妙好人も、隣人としては傍迷惑な人たちでしかない。
 鳩摩羅什という人は、漢訳した仏典が大変大きな影響を与えたので「名翻訳家」などともてはやされているが、彼自身は翻訳という仕事に然程大きな意義を認めていたわけではなかった。また、鳩摩羅什の訳語選択は、彼自身よりはスタッフの功績が大きいことが分かっている。

 すなわち、世間的な価値においては、大した価値を創出したわけではない。

 だが、彼らは、出世間においては、確かに最高の価値を見出したのである。

 そのことを、世間に伝えようとすれば、世間に通用する表現を用いなくてはならない。

 例えば、宗教では真実が擬人化されて表現されることが多い。神やブッダが私自身と同様に意志や感情を持つ存在として描かれる。

 龍樹が二諦を説いて、第一義諦(真実そのもの)のみならず俗諦(世俗的な慣習に従って表現された真実)をも重視したのも宜なることであった。仏教における「方便」の重視も同根であろう。
 しかしながら、この「世間に通用する表現」というのが難しい。

 

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